原体験とは
「原体験だより」宮下繁編より
我々は、視・聴・触・臭・味の五官によるさまざまな体験を通して成長していく。特に生まれてから幼児期にかけては、水に触れてその冷たさや漏れる感触を知ったり、ストーブの近くに行って暖かさや熱さを感じたり、身近な物を口に入れてはおいしい物やまずい物を知ったり、花のにおいやカメムシのくさいにおいを嗅いだりと、本人は意識していなくてもさらされている環境から多くのことを体験させられるのである。このとき、視覚や聴覚だけでなく触覚・嗅覚・味覚を伴った体験は、強く脳に焼きついて長期の記憶となる。これは、毒のあるまずいチョウを食べた鳥が二度とその種のチョウを食べなくなるように、古くから動物に備わっている行動様式なのかもしれない。それに対して、視覚や聴覚、特に視覚は、我々人間にとって最も情報量の多い感覚であり、霊長類は視覚を発達させることで外界からの情報の大部分を視覚から得るようにしたために、必要度の低くなった触覚・嗅覚・味覚などの感覚が衰えてしまった。つまり、原始的な動物が五官すべてを駆使して情報を得ていたのに対し、霊長類ではそのほとんどを視覚に頼るようになったのである。そのため、百聞は一見に如かずとも言うように、視覚を使えば多くの情報が得られるが、その分情報が多すぎて一般にはその記憶は忘れられてしまいやすい。このような原始的な動物から霊長類への進化の過程を、乳児の発達段階でヒトは経験している。生まれたときは、まだ目が開いていない。母親の乳首を唇で求め、それを確かめて吸う。母乳でない場合はミルクが熱かったり冷たかったり判断するのは舌や口である。そのうち、母親の肌の柔らかさや暖かさ、乳のにおいなどを覚え、それらに囲まれていると安心するようになる。このように、生まれて間もない赤ん坊は触覚・嗅覚・味覚を駆使して生き抜こうとしているのである。その後、成長していくにつれて視覚が発達するようになり、目で見て行動する割合が高くなっていくのである。そして視覚が発達するのと反比例して触・臭・昧の重要性が低くなっていくのである。成長が進み、能動的な行動ができる幼児期になると、人類の進化の過程を繰り返して経験するようになる。野原で石をつかんでこすってみたり、投げてみたりする。跳ね返ったり割れたり手を切ったりするうちに、石で木の肌に傷をつけたり虫を殺したりするようになる。これは、猿人が石器を使うようになっていく過程と考えることができる。近くに火があると、恐る恐るではあるが近寄ってじっとみたり手をかざしたり、ときにはやけどをしたりする。そのうち、火は危ないものではあるが暖かかったり紙を燃やすことができたりすることを覚える。これは原人による火の使用に相当する。砂場で泥をこねたり穴を掘ったりするうちに、泥や土で山を作ったり家を作ったりするようになる。これが発展すれぱ新人にみられる土器の使用となる。これらの体験には、視覚もずいぶん関与しているが、石や泥の手触り、火の熱さや焦げるにおいなど、やはり触・臭・味に関わる感覚が強く伴っている。このように考えると、触・臭・味に関する感受性は、乳児から幼児期にかけて最も高いと言えるのではないだろうか。言い換えると、これらの感受性を高めるには乳児から幼児にかけての期間が最も重要と考えられるのである。それは、この時期においては触・臭・味こそが生きる上での基本的な感覚であるからである。そこで、乳児から幼児期にかけて、特に触・臭・味に関する体験を多くしていくことは非常に重要であり、このような体験を原体験と呼んでいる。原体験は、体験しようと意図したものではない。生きる上で(生活の中で)自然にする体験である。よって、これをさせよう、あれをさせようとするのではなく、屋内の決まった空間だけではなく、野外など刺激の多い空間に連れ出し、さまざまな体験を自由にできる場を与えてやればそれでよいのである。野生動物は自然の中での遊びを通して生き抜く知恵を獲得していく。同じように、人間の場合も自然の中でする原体験の蓄積が、いずれ知恵となっていくのである。もともと、個々の原体験には系統だったつながりはない。そのバラバラな原体験があるとき結びつくと、知恵になるのである。山での生活で、植物の色やにおいや手触りが食べたときの味と結びつくと、名前は知らなくても経験的に食べられる山菜と食べられないものとが識別できるようになる。このとき、一度食べてひどい思いをしたものや、とてもおいしかったものほどよく覚えているものである。また、空模様、風のにおい、動植物のようすから、雨が降ることを予知できたりもする。このような知恵は、かつては多くの人間がもっていた。それは、知恵をつけようと多くの原体験をしたからではなく、野山や川に囲まれた生活の場で自然に多くの原体験をすることができたからである。このように、原体験とは触覚・嗅覚・味覚などを通して自然から得られる体験であり、それ自体に目的や意図はないのである。結果的に役に立つ体験もあれば、一生役に立たない体験も含まれる。どの体験がどのように生かされるかは個人のその後の人生によって異なるのである。しかし、原体験が少なければ、結びつける選択肢が減り、身につく知恵も少なくなってしまうのである。これは自然科学、文化、芸術などあらゆる領域に共通していることであり、原体験とは人間としての礎となるものである。
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