教育における原体験
「原体験だより」宮下繁編より
さて、教育における原体験の位置づけを考えると、原体験は学校教育以前の段階に位置される。本来、生活の知恵につながるような原体験は学校でさせるものではなく、豊富な原体験を前提として、それらを結びつけて知恵としたり、体験した現象のしくみを理解したりすることが学校教育において為すべきことである。ところが、現代の生活においては自然からの原体験が少なく、実物を知らない、実際の現象を知らないことが非常に多い。そのため、各教科における学習内容を身近に理解する術があまりなく、実感としてわからなかったり、内容を膨らませて理解することができにくくなっているのである。今、学校教育は欠落した原体験を少しでも補う必要に迫られているのである。そして、それを効果的に行うために、触・臭・味を重視した体験をさせることが重要なのである。乳幼児期に比べると五官における視覚の割合が大きくなってはいるが、触・臭・味を通した記憶はやはり印象が強く、長期の記億として残るからである。ただし、本来家庭や地域の中で自然に体験していく原体験を学校教育で補うのであるから、原体験だけをさせていれぱよいというものではない。しかも、原体験には教育的意図はなく、○○のために△△をするというものではないのである。つまり、学校教育においては一見無駄なことであり、評価の対象とならないのである。しかし、物事を理解するときはふつう身近な現象に置き換えて理解することが多く、その拠り所となる原体験が少ないと選択肢が少なくなり、置き換えるものがなくて理解が深まらないということが起こってくるのである。よって、すぐに役に立つからという短期的な視野で考えると原体験は確かに無駄のように思われるが、長期的な視野に立って考えるとその重要性は非常に高いのである。このことをよく理解して、豊富な原体験をさせていく必要があるのである。教育だけでなく、社会においても人生においても、一見無駄なものがあって初めて全体がうまく成り立っているのである。これは、45億年前に誕生した生命が、有性生殖というエネルギー的に効率の悪い生殖方法を獲得することによって、さまざまな環境の変化に対応して栄えることができたように、生物における真理の一つといっては言い過ぎであろうか。
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